第二次大戦前期の1940年7月から10月にかけて英国本土上空で繰り広げられた英独の戦い「Battle of Britain」を描いた映画「空軍大戦略」の中にこんなシーンがある。
スピットファイアを擁する英国空軍の攻勢によってドイツ空軍が劣勢になる中、ドイツ空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングがパイロットたちに、「どんな戦闘機があれば英空軍に勝てるか」と訪ねる。パイロットの一人であるファルケ大佐が「スピットファイア1個中隊ください。」と答える。
ドイツの戦闘機より、スピットファイアのほうが性能が上だ、という厭味。
これは実話。ファルケ大佐のモデルは、アドルフ・ガーランド(Adolf Gallannd)という人。
実在の戦闘機パイロット。出撃回数705回で104機を撃墜したエース。1941年に戦闘機隊の最高位である総監に任命され、最終階級は空軍中将。没年は1996年。戦後も航空関係で活躍した。
この写真集では“ガラント”と呼んでいるが、Webサイトなどいろんなところでは“ガーランド”。だからガーランドと書く。
このガーランドは “ミッキーマウス” で有名。
Wikipediaには、
スペイン内戦時からガーランドのパーソナルマークは、葉巻をくわえ、手に斧と拳銃を持ったミッキーマウスであった。ミッキーマウスが好きだったガーランドは、スペイン内戦時の自分の中隊名をミッキーマウスとしていた。葉巻好きとしても有名であり、ガーランドの写真や漫画には葉巻をくわえた姿が多い。バトル・オブ・ブリテンの際には、自身の戦闘機のコックピットに灰皿を取り付けてもらった。…とある。
ガーランドは戦中乗り継いだメッサーシュミットにミッキーマウスのマークを描いている。
なんで、アメリカと戦うドイツの戦闘機にミッキーマウスが…と、誰もが思う疑問。
でも、聞いてみれば不思議でもなんでもない。
1930年1月に最初のミッキーマウス映画がドイツに輸入された。輸入元は南映画(ズュート・フィルム)という娯楽映画を専門に扱う会社。
だから、ガーランドが自分の愛機のメッサーシュミットに、パーソナル・マークとしてミッキーを描いていたからって、驚くことでもなんでもないんだ。
ガーランドが愛機にミッキーを書き始めたのは、1936年に起こったスペイン内戦から。
ドイツは政権の義勇軍として、空軍を主体とした「コンドル軍団」を派遣した。ガーランドはこの軍団の第88戦闘飛行隊第3中隊長(3./JGr88)として赴任し、300回以上の戦闘任務をこなした。
この飛行隊の分隊マークがミッキーだったらしい。
Legion Condor (コンドル軍団)の Messerschmitt Bf109 1/24 Wing Club製
6●79はヴェルナー・メンダースの搭乗機
メルダースは出撃回数400回、撃墜機数115機のドイツ空軍のエース・パイロット。
コンドル軍団に志願し、ガーランドから第88戦闘飛行隊第3中隊長を引き継いだ。
ちなみに、このスペイン内戦時の1937年4月、コンドル軍団とイタリア空軍はバスク地方の都市ゲルニカを爆撃し、市街の60%から70%を破壊した。史上初めての都市無差別空爆だそう。
ピカソはこの無差別爆撃に憤怒し、それを題材とした大作の壁画「ゲルニカ」を描いた。
ピカソの「ゲルニカ」
Wikipediaには、「ミッキーマウスが好きだったガーランドは、スペイン内戦時の自分の中隊名をミッキーマウスとしていた。」と書いてあるが、もともとミッキーマウス部隊とよばれていたところに赴任して、自分もミッキーを付けたと解する記述も他にあって、どっちがどうだか分からない。
とにかく、スペイン内乱時には、ミッキーが機体にかかれたメッサーシュミットが何機も飛んでいたし、その後の第2次大戦中も、ミッキーを機体に描いたメッサーシュミットが連合軍の戦闘機をたくさん撃墜したのは事実だということ。
と、ミッキーは、最近のいろいろなキャラクターとは違って、世界史にすら関わり、国境や思想を超えた存在であるのだと言い切っても、大袈裟じゃないと思う。
スピットファイアを擁する英国空軍の攻勢によってドイツ空軍が劣勢になる中、ドイツ空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングがパイロットたちに、「どんな戦闘機があれば英空軍に勝てるか」と訪ねる。パイロットの一人であるファルケ大佐が「スピットファイア1個中隊ください。」と答える。
ドイツの戦闘機より、スピットファイアのほうが性能が上だ、という厭味。
これは実話。ファルケ大佐のモデルは、アドルフ・ガーランド(Adolf Gallannd)という人。
実在の戦闘機パイロット。出撃回数705回で104機を撃墜したエース。1941年に戦闘機隊の最高位である総監に任命され、最終階級は空軍中将。没年は1996年。戦後も航空関係で活躍した。
ガーランドは実際にゲーリングの「爆撃機部隊を擁護する戦闘機部隊の能力を向上させるには何をすべきか」という詰問に「どうか私の航空団の機体をスピットファイアに改編してください」と皮肉をこめて答えたのだそう。大日本絵画刊の記録写真集「アドルフ・ガラント」(ヴェルナー・ヘルト著)に、そう書かれている。
映画で、そのエピソードを描いている。
この写真集には、「1967から68年。ガラントは映画 “バトル・オブ・ブリテン” の撮影にコンサルタントとして参加した。」と書かれ、その時のスナップが載っている。
映画で、そのエピソードを描いている。
この写真集には、「1967から68年。ガラントは映画 “バトル・オブ・ブリテン” の撮影にコンサルタントとして参加した。」と書かれ、その時のスナップが載っている。
この写真集では“ガラント”と呼んでいるが、Webサイトなどいろんなところでは“ガーランド”。だからガーランドと書く。
このガーランドは “ミッキーマウス” で有名。
Wikipediaには、
スペイン内戦時からガーランドのパーソナルマークは、葉巻をくわえ、手に斧と拳銃を持ったミッキーマウスであった。ミッキーマウスが好きだったガーランドは、スペイン内戦時の自分の中隊名をミッキーマウスとしていた。葉巻好きとしても有名であり、ガーランドの写真や漫画には葉巻をくわえた姿が多い。バトル・オブ・ブリテンの際には、自身の戦闘機のコックピットに灰皿を取り付けてもらった。…とある。
ガーランドは戦中乗り継いだメッサーシュミットにミッキーマウスのマークを描いている。
なんで、アメリカと戦うドイツの戦闘機にミッキーマウスが…と、誰もが思う疑問。
でも、聞いてみれば不思議でもなんでもない。
1930年1月に最初のミッキーマウス映画がドイツに輸入された。輸入元は南映画(ズュート・フィルム)という娯楽映画を専門に扱う会社。
2月に南映画社は、映画館主とマスコミ関係者を招待して試写会を開いた。で、翌日の新聞紙上はミッキーの記事でもちきりになった。
…ミッキーはトーキーの奇跡そのものである。
…働く大衆へのなんという贈り物だろう。日常を忘れる一時間の喜びと気晴らし。それらすべてが、このきわめて緻密な芸術の要求にうってつけのフォルムの中にある。
…ミッキーはトーキーの奇跡そのものである。
…働く大衆へのなんという贈り物だろう。日常を忘れる一時間の喜びと気晴らし。それらすべてが、このきわめて緻密な芸術の要求にうってつけのフォルムの中にある。
それが何かといえば、ミッキーといとこたち、…。
5月にはベルリンの映画館が「ミッキー トーキーの奇跡」というプロゴラムを上映した。翌日の紙上には、「…みごとに満席となった。…何度も何度も笑いの渦が沸き起こり、興奮を静めてもらわなければならないほどであった。」と書かれた。
1930年初頭には、ドイツ帝国に最初のミッキーマウス・ブームが起こった。陶器製の人形やブリキ製のピンブローチなどグッズも盛んに作られた。
上記の戦前のドイツでの “ミッキー人気” のことが、現代思想社刊「ミッキー・マウス ディズニーとドイツ」(カルステン・ラクヴァ著)に書かれている。
つまり、敵対国うんぬんなんて関係なく、対峙する前から映画文化としてミッキーはドイツに渡り、受け入れられて“人気者”として定着した、ということ。
「ディズニーとドイツ」にはこんなことも書いてある。
ミッキーマウス映画を観たいとき、まず許可を求めなくてもいい唯一の人物といえば、アドルフ・ヒトラーである。…首相官邸でディズニー映画が熱心に観られていたことは、映画関係者の間で広く知られていた。
また、プロパガンダの天才と言われたナチの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルスが、ヒトラーにミッキーの映画18本をプレゼントした、とも書いてある。
つまり、ヒトラーもミッキーマウスの大ファンだったらしいということ。
5月にはベルリンの映画館が「ミッキー トーキーの奇跡」というプロゴラムを上映した。翌日の紙上には、「…みごとに満席となった。…何度も何度も笑いの渦が沸き起こり、興奮を静めてもらわなければならないほどであった。」と書かれた。
1930年初頭には、ドイツ帝国に最初のミッキーマウス・ブームが起こった。陶器製の人形やブリキ製のピンブローチなどグッズも盛んに作られた。
上記の戦前のドイツでの “ミッキー人気” のことが、現代思想社刊「ミッキー・マウス ディズニーとドイツ」(カルステン・ラクヴァ著)に書かれている。
つまり、敵対国うんぬんなんて関係なく、対峙する前から映画文化としてミッキーはドイツに渡り、受け入れられて“人気者”として定着した、ということ。
「ディズニーとドイツ」にはこんなことも書いてある。
ミッキーマウス映画を観たいとき、まず許可を求めなくてもいい唯一の人物といえば、アドルフ・ヒトラーである。…首相官邸でディズニー映画が熱心に観られていたことは、映画関係者の間で広く知られていた。
また、プロパガンダの天才と言われたナチの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルスが、ヒトラーにミッキーの映画18本をプレゼントした、とも書いてある。
つまり、ヒトラーもミッキーマウスの大ファンだったらしいということ。
2008年2月23日にノルウェー北部にある戦争博物館が公表した、ヒトラーが描いたというディズニーのキャラクター絵画。真意は不明だけど、AHのサインがある。
ヒトラーは若い頃は画家を目指していて、多くの絵を残しているし、それにディズニーのファンだったとすれば、まんざら間違いではないかも。
ヒトラーは若い頃は画家を目指していて、多くの絵を残しているし、それにディズニーのファンだったとすれば、まんざら間違いではないかも。
だから、ガーランドが自分の愛機のメッサーシュミットに、パーソナル・マークとしてミッキーを描いていたからって、驚くことでもなんでもないんだ。
ガーランドが愛機にミッキーを書き始めたのは、1936年に起こったスペイン内戦から。
ドイツは政権の義勇軍として、空軍を主体とした「コンドル軍団」を派遣した。ガーランドはこの軍団の第88戦闘飛行隊第3中隊長(3./JGr88)として赴任し、300回以上の戦闘任務をこなした。
この飛行隊の分隊マークがミッキーだったらしい。
Legion Condor (コンドル軍団)の Messerschmitt Bf109 1/24 Wing Club製
6●79はヴェルナー・メンダースの搭乗機
メルダースは出撃回数400回、撃墜機数115機のドイツ空軍のエース・パイロット。
コンドル軍団に志願し、ガーランドから第88戦闘飛行隊第3中隊長を引き継いだ。
ちなみに、このスペイン内戦時の1937年4月、コンドル軍団とイタリア空軍はバスク地方の都市ゲルニカを爆撃し、市街の60%から70%を破壊した。史上初めての都市無差別空爆だそう。
ピカソはこの無差別爆撃に憤怒し、それを題材とした大作の壁画「ゲルニカ」を描いた。
ピカソの「ゲルニカ」
Wikipediaには、「ミッキーマウスが好きだったガーランドは、スペイン内戦時の自分の中隊名をミッキーマウスとしていた。」と書いてあるが、もともとミッキーマウス部隊とよばれていたところに赴任して、自分もミッキーを付けたと解する記述も他にあって、どっちがどうだか分からない。
とにかく、スペイン内乱時には、ミッキーが機体にかかれたメッサーシュミットが何機も飛んでいたし、その後の第2次大戦中も、ミッキーを機体に描いたメッサーシュミットが連合軍の戦闘機をたくさん撃墜したのは事実だということ。
と、ミッキーは、最近のいろいろなキャラクターとは違って、世界史にすら関わり、国境や思想を超えた存在であるのだと言い切っても、大袈裟じゃないと思う。